HISTORY

物語のはじまり

History

物語のはじまり

1922年11月1日、時は大正デモクラシー、
世界に誇る施設ながら、誰もが利用できる人々が集う
社交場を目指して、東京會舘は開業しました。

1920 - 1940's

1920 - 1940年代

<時代の動きとともに生まれた東京會舘>
西洋文化の波が街中に広まり始めた頃、東京會舘は開場しました。社交場の活用がまだ一般的ではなかった時代。「世界に誇る施設ながら、誰もが利用できる人々が集う社交場」を目指し、東京商業会議所会頭の藤山雷太、帝国劇場専務 山本久三郎、西洋料理店・三田東洋軒主人 伊藤耕之進が開場のために尽力。当時には珍しいルネッサンス様式は大いに話題となりました。しかし1923年、関東大震災が初代本館を襲います。消失や倒壊は免れたものの、余儀なくされた休館。営業再開に4年を要しましたが、本物の味とおもてなしに特化した「東京會舘スタイル」をこの時に確立し、「社交の殿堂」と名を馳せました。1934年には日本初となる鮮魚介料理店が誕生。その店こそが現在、東京會舘を代表するレストラン「プルニエ」です。
1937年に日中戦争が勃発すると事態は急変。鉄製支柱は供出され、1940年には大政翼賛会が徴用し「大東亜会館」と改称。さらに1945年にGHQの接収を受け、「アメリカン・クラブ・オブ・トーキョー」として受託営業し、1952年まで将校クラブとして重用されました。

Cuisine

GHQ接収時代のバー

Cuisine

GHQ接収時代の屋上風景

Cuisine

初代本館 大宴会場

Cuisine

大宴会場に設置されていたチェコ製の大シャンデリア
現在の三代目本舘では3階の螺旋階段上部に設置

東京會舘の匠 田中徳三郎

パリの名店「プルニエ」や「ホテル・リッツ」で3年間修行し、フレンチの真髄を身につけた田中徳三郎シェフ。帰国後、初代本館に日本初の鮮魚介料理店「プルニエ」を開設。現在に受け継がれる東京會舘の味の礎を作ったばかりか、日本のフランス料理界のお手本となりました。

東京會舘の味 舌平目の洋酒蒸 ボンファム

初代料理長 田中徳三郎がレシピを伝え、完成させた東京會舘の看板料理。東京會舘が創業した大正11年11月1日、そのわずか二週間後に行われた結婚披露宴の献立にもボンファムが登場していました。当時の献立には「舌比目魚洋酒蒸」と書かれています。まだ横文字も普及していない時代、フランスの有名レストランに伝わるメニューが味わえたのは画期的なことでした。

「結婚式は東京會舘で」という時代

当時の上流階級の結婚式は、会社ぐるみ、家ぐるみで大がかりに行われるのが普通。初代本館の宴会場は一度に500のテーブルセットが組めるキャパシティを誇り、大勢の招待客を呼び、豪華な披露宴を、という風潮に東京會舘ほどマッチしていた場所は他にありませんでした。多くの方々が憧れたこの宴会場で、八代目松本幸四郎さんが結婚披露宴を挙げたのは、昭和15年のことでした。

マッカーサー元帥も愛したといわれるカクテル

戦後、GHQの接収を受け、「アメリカン・クラブ・オブ・トーキョー」として営業した時代、昼間にこっそりお酒を飲むGHQの将校たちのためにバーテンダーが気を利かせて作ったのが誕生のきっかけ。ミルクとジンという意外でいて絶妙な組み合わせは、将校の間で評判となり、マッカーサー元帥もお気に入りだったといわれています。

Social contributions
of TOKYO KAIKAN

社会の持続性への貢献に対する取り組み

社会の持続性への貢献

豊かな社会と食文化の発展に貢献することを企業理念としている東京會舘。社会の持続性への貢献を課題とした取り組みについてご紹介いたします。